1. 「教える」から「共に在る」へ。教師像を再構成する意味
40年以上前に、私は、新卒で高校の教師になりました。当時は、学校の規則を守らせること、内容を繰り返し整理して教えることが強調されていました。「忍耐」、「克己」などの徳目もひろく用いられていました。教師は長らく、知識の伝達者であり、正解を授ける者として教壇に立ってきました。しかし今、教育の現場にはかつてない変化の波が押し寄せています。
これまで、日本の教師像は、次の三つの異なる期待に応えようと奮闘してきました。
一つ目は、全人格を捧げて子どもに尽くす「聖職者」としての姿。二つ目は、高度な技術と知識で理解を促す「専門職」としての姿。そして三つ目は、賃金の対価として教育サービスを提供する「労働者」としての姿です。「教師なのだから私生活を犠牲にしても、子どもや地域に奉仕を」という無言の圧力(聖職者性)と、「プロとして、一定水準のパフォーマンスを」という要求(専門職性)、そして「安定した仕事と、健康な生活を」という生活者としての願い(労働者性)。この三つの間で板挟みになり、疲弊を感じてきた先生も少なくないはずです。
今、私たちが直面している転換期は、古い葛藤に終止符を打ち、背負ってきた重荷を下ろし、等身大の人間としての教師、教えることの喜びを取り戻すチャンスなのかもしれません。
2. 生身の人間としての教師の価値
スマホを開けば、どこにいても、いつでも、オンラインで、最高の講師による授業動画が観られます。質問があれば、AIが何回でも丁寧に答えてくれる。公教育とビジネスとの垣根が低くなり、企業の提供するコンテンツやアプリが公教育でも活用されています。教師が知識を独占する時代は終りを告げ、その結果、その立場や役割も変化しようとしています。
このような変化は、一見すると「学校」や「教師」の存在意義を揺るがすように思えるかもしれません。しかし、それは逆でしょう。知識を伝えるだけの仕事がテクノロジーに置き換わったからこそ、「生身の人間同士が、同じ空間で共に過ごす価値」が、かつてないほど高まっているのです。
3. 多様な関係を自分らしく整理し、一体的に表現できる専門職へ
これからの教師に求められるのは、教壇の上から知識を「授ける」ことではなく、子どもの横に立って学びを「支える」ことだと言われます。コーチとして、子ども自身の知りたいという内発的な動機を引き出す。ナビゲーターとして、多様な価値観や溢れる情報の中で、進むべき方向のヒントを示す。伴走者として、正解のない問いに立ちすくむ子どもの隣で、一緒に悩み、考え続けることです。しかし、現実には子どもの理解が授業に先行することもあり、一方で、規律やルールはしっかりと守らせる必要もあります。組織人として行動することも求められます。報告書は「伴走者」とさらっと記述しますが、現実には、一人一人の教師は、ひとかどのプライドをもった大人です。縦、横、斜めの人間関係を、自分のパーソナリティの中で、統一的に使いこなすために、相当の矛盾や苦労があるはずです。教師像が変わるということは、従来の固定的な関係や役割分担を、社会的に再構成していく貴重な機会に恵まれているということでもあります。
4. 「共にある教師」は、教職を自分の手に取り戻すこと
教師像の再構成は、決して「子どもや保護者への従属」でも、「今までの学校や教師の否定」でもありません。相手をコントロールすることでもなく、相手への迎合でもありません。再構成には、子どもとの関係だけでなく、保護者とも、そして組織とも、新しい関係を築いていくことであろうと思います。私は、今までに培ってきた専門性を大切にしながら、もっと軽やかに、もっと自由に、子どもたちと共に歩むようになれないかと考えています。教師にとっても、子どもにとっても、お互いが、人生に新しい彩りを添える存在となれるように、なれればと思います。教壇を降り、子どもの隣へ。そこから始まる新しい教育とは聖職者・専門職・労働者という伝統的な教師像を超えて、教職を自分の手に取り戻すことであると思います。
国立大学法人東京学芸大学 学長 佐々本幸寿