Vol.285舞台あらしと天才子役──漫画で考える演劇と教育②
「私の演技」は誰のもの?

2025.11

 俳優の演技は、誰のものでしょうか。

 俳優が「これは私の表現だ」と思って演じたとしても、観客にとっては「作品の一部」にしか見えないかもしれない。あるいは、有名な俳優であれば、「さすが、(個人名)は上手いなぁ」と思われているかもしれない。今回はそのことを、『ガラスの仮面』の北島マヤと、『【推しの子】』の有馬かなという二人のキャラクターを通して考えてみようと思います。

 マヤの舞台上での振る舞いには圧倒的な吸引力があります。マヤはライバル・姫川亜弓と「奇跡の人」のヘレン役をダブルキャストで演じ、マヤだけが大きな賞を獲得しますが、これについて亜弓はマヤに以下のように言い放ちます。

わたしはヘレンを完璧にやり通したと自負しているわ もしあなたがわたし以上に“完璧なヘレン”を演ったのならこの賞があなたにいったことでわたしの負けになる
けれどあなたのは“新鮮なヘレン” きっとあなた個人の魅力・・・・・あふれる舞台をやったのね(単行本13巻p. 15 傍点ママ)

 マヤは昔からテレビドラマや映画を偏愛していて舞台上での振る舞いの勘所を押さえていますが、全て勘です。つまりマヤは、たまたま一緒に制作に携わる人に恵まれ、勘が当たっている場合には高く評価もされるのですが、それが外れていた栄進座の舞台(第6章)ではすぐに下ろされてしまうのです。「北島マヤ」という個人の表現の爆発的な力を、マヤ自身は自覚もコントロールもできないのです。

 一方、かなは、自分が「どう見えているか」を常に気にしています。かなは、自分自身より作品をよく見せることを優先する俳優です。売り出し中のイケメンモデルたち(彼らは演技の経験が全くない下手っぴです)が出演するドラマのヒロイン役を演じるかなは、自分の技術をあえて抑えることで、作品に溶け込こもうとします。

私だって全力で演技したいわよ 誰が楽しくてわざわざ下手な演技をするっていうの
でも上手い演技と良い作品作りは別……
上手い演技をすれば良い作品になるかと言われればそうじゃない
(略)
せめて「観れる」作品にする その為なら へたくそな演技もする(単行本2巻 pp. 87-89)

 かなは、客席やカメラから自分がどう見えるかをほぼ完璧にコントロールできます。求められれば下手な演技もできるのです。この場合、かな自身の魅力が発現することはないでしょう。主人公アクアは、その判断が観客からのかなに対する評価を下げることを心配しますが、それでもかなは作品の一部となろうとします。

 亜弓に指摘されるマヤの「個人の魅力」について、マヤには全く自覚がありません。マヤのヘレンが魅力的に見えたとすれば、実はそれは結果として相手役の魅力を引き出したからです。マヤが俳優として高い能力を発揮しているように見られるのは、周囲との相性が良かった時。そうでない場合、マヤの表現は舞台を壊してしまいます。

 周囲との調和を優先するかなは、子役時代からどんどん売れなくなり見放されていくという絶望の経験を抱えていて、実は「私自身を見てほしい」と欲望しています。けれど、俳優としてのかなは舞台上でその欲望を満たすことはできません。かなの表現は、彼女自身の欲望とは別の文脈の中に押し込められているのです。

 マヤにおいても、かなにおいても、彼女たちの演技は彼女たち自身からはけっして切り離すことができないものです。しかし、「その表現は誰のもの?」と問うたとき、どちらも“本人のもの”とは言えないのではないでしょうか。

 自分の表現を取り上げられる。ここで、「10代の少女たちに対して、それは残酷では?」という想像を働かせてみましょう。マヤやかなをこんな残酷な状況においているのはなんでしょう。それは他ならぬ「演劇」という表現形式ではありませんか?(続く)

東京学芸大学 芸術・スポーツ科学系
音楽・演劇講座演劇分野 准教授
花家彩子
【参考文献】
赤坂アカ、横槍メンゴ『【推しの子】』集英社、2020年〜2024年
美内すずえ『ガラスの仮面』白泉社、1975年(以後継続)
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