Vol.286舞台あらしと天才子役──漫画で考える演劇と教育③
あなたが見ているのは私ですか? それとも?

2024.11

 演劇は、観客の存在を抜きにしては成立しません。そしてこの「見る観客」と「見られる俳優」の関係には、しばしば非対称な力関係が成立しています。今回は、演劇を成立させる“観客”について考えてみましょう。

 演劇という形式は、観客に見られることを前提としています。しかし、観客は単に「作品の良し悪し」を判断する集団ではありません。観客とは、実は、一人ひとり明確に異なる前提を持った個人です。演劇の上演を見届ける際にも、一人ひとり違う見方をしています。

 『【推しの子】』で有馬かなが2.5次元舞台に出演しているとき、かなたち出演者は、その舞台の成立過程において自分たちがいかにして困難を乗り越え、努力してきたかを回想します(このドラマは漫画『【推しの子】』を楽しむための重要な要素の一つです。ぜひ本編で)。しかし、何人かの観客の感動は、それが「原作通り」であることに根ざしています。『ガラスの仮面』で北島マヤが「嵐が丘」キャサリンの子ども時代を演じた時(単行本8巻)、客席にいるマヤのボーイフレンド・桜小路優は、マヤが自分に見せたことのない情熱を相手役に示していることに苦悩し、陰ながらマヤを応援している速水真澄は、俳優として成長していくマヤを見守ります。どちらも「嵐が丘」のキャサリンを見ていません。

 マヤもかなも、一生懸命努力して舞台に立っているのに、です。観客は作り手の努力の先にある舞台作品を見ているとは限らないのです。

 とはいえ、観客の立場にしてみれば……好きな俳優が出ているシーンでは、背景に回っていても無意識に目で追ってしまう。あるいは「この人を推したい」と思った瞬間から、舞台の全体性よりもその人の魅力に酔いしれる。学芸会で自分の子どもが舞台に立っていたら、自分の子どもばかり見るのは当然でしょう。観客は常に、個別の関係性や感情を持ち込んで舞台を見ています。演技や作品作りに対する努力がそのまま観客からの評価につながるとは限らず、むしろ全く技術や努力がなくても、前提によっては見る/見られるの関係を持った演劇が成立することもあります。

 にもかかわらず、『ガラスの仮面』も『【推しの子】』も、マヤやかなに「いい演劇作品」を成立させるための努力をさせています。実際には、「いい作品」にするために努力しても、観客のうちの誰か一人でもそれを評価してくれる保証さえありません。しかし、演劇制作の過程においてはそれが忘れられ、マヤもかなも、他の制作者たちも、「観客は全体を公平に見てくれる」と愚直に信じているではありませんか。

 演劇制作の過程とは、実際には公平にも均質にも見てくれない個別の観客を、あたかも「いい作品」を見届けてくれる集団であるかのように(あえて)錯覚し、そのような幻想の観客集団を満足させる「いい作品」のために俳優個人の身体表現を作品全体に位置付けて個人を配置する、場合によっては、選別し、抑圧し、排除する過程なのです。

 恐ろしいことに、この説明は「演劇制作は協働作業である」という言説と矛盾しません。

 演劇とは本当に、一人ひとりの得意なことを活かしあって協働する場であり得るのでしょうか。

 わたし個人は、演劇と教育が交差するいくつかの現場で、とても素敵なことが起きていることを知っています。個人の魅力と構造の論理がぶつかりあうことで、想像以上の何かが起きることはあります。しかし、それが演劇であるならば、そこには 「見ること」と「見られること」の不均衡があります。その緊張をどう引き受けるか──このことは絶望ではなく、むしろ今後の演劇と教育を考える手がかりになると思います。(終)

東京学芸大学 芸術・スポーツ科学系
音楽・演劇講座演劇分野 准教授
花家彩子
【参考文献】
赤坂アカ、横槍メンゴ『【推しの子】』集英社、2020年〜2024年
美内すずえ『ガラスの仮面』白泉社、1975年(以後継続)
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