Vol.144多様な子どもをいかに見とるか②
「この子」がいるからこそ実現する授業

 前回は子どもの「見とり」について述べましたが、そのときはこれでよしと思っても、状況の変化で教師の見通しが覆されることはしばしばあるものです。それを私たちは自身の力不足と考えがちですが、それならば「今を生きている子どもたち」をどのように見とっていけばよいのでしょう。何か私たちの手立てが常に後手に回っているように思えるのですが、それこそ「それが子どもなのだ」という考えも成り立つのではないでしょうか。今回は授業での子どもの様子からいろいろと考えを深めていきたいと思います。

 8年ほど前、小学校教員として最後に担任した4年生。社会科の授業で学校の周りを探検する活動を行いました。学校近くのゴミ集積場でA君がふと立ち止まり、「何で自転車をゴミ置き場に捨てるのかなぁ。」とつぶやきました。そのつぶやきに仲間は「誰かがそこに置いて出かけてまた乗って帰るんじゃない?」「ゴミかどうかわからないよ。」と。このやりとりを見て、私は「A君はなぜ自転車を捨てたと思うの?」と問うことを少し待つことにしました。A君が仲間の声を聞いていろいろと考え始めた様子が見えたからです。

 さて次の授業、A君は次のようなことを話し始めました。
「あの場所はぼくの通学路だから最近自転車が置きっ放しになっていてゴミだと思った。でもみんなの意見を聞いてゴミじゃないかもしれないと思って、登下校の時に確かめてみたら位置も何も変わっていない。やっぱりゴミだと思った。」これを聞いた仲間たちは「すごいね、ちゃんと確かめたんだ。」「納得!」

 子どもたちは、自分の意見を支える確かな事実の必要性とそれを自分で見つけることの大切さを学んだはずです。A君は仲間の考えを聞いて自分のとらえがそれでよかったのかを考え、仲間はA君の気づきとともにその後の学びの実際を知りました。まさにそれぞれが自分の考えを揺さぶられたのです。また、彼らの教室での学びが校外に出ることを通してさまざまな現象と出会い、揺さぶられました。自ら動くことや外へと目を向けることがいかに楽しいかが学級に共有された学習だったのです。

白鴎大学教授 内田雄三
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