Vol.143多様な子どもをいかに見とるか①
「見とり」「見通し」「見立てる」

2019.04

 教員初任期の頃は隣のクラスに遅れをとらぬよう仕事をするのが精一杯でした。「子どものために」と望んだ教員生活もなかなか手応えを得られませんでしたが、それなりの経験を積み卒業生も送り出し、教員10年目に初めて1年生の担任になりました。1年生と過ごす毎日の生活にさまざまな気づきや驚き、おもしろさがありました。それとともに自分の力量不足を味わい、この9年間は子どもに助けられてばかりだったことを痛感しました。

 前任の小学校には築山状のアスレティック、通称「どんぐり<山」があります。体育授業をどんぐり山で行うため、「どんぐり山に『集合』だよ!」と声をかけ、「はあい」という返事に多少安心した私は少し遅れどんぐり山へ。子どもたちはどんぐり山で元気に遊んでいます。しかし、私の想定は体育授業を始める前の集合した・・・・子どもの姿。「いやいや『集合』と言ったでしょ」と思いましたが、彼らは確かにどんぐり山にいます。「どんぐり山(の前のシダレザクラの木の前に、あるいはシュート板の前)に集合だよ。」と伝えるべきでした。高学年なら「集合」の言葉や授業を意識しておそらく整列して待っていたはず。もっと具体的で明確な指示が必要でした。私の見とりが甘く、指示の曖昧さが露呈したわけです。

 子どもたちの見とりは重要だ、とよく言われますが、どうすることが見とる上で大事なのか。それには次の行為を生み出すあるいは導くための「見立て」が確かなものになることではないでしょうか。その「見とり」と「見立て」をつなぐのが「見通し」です。子どもの実態をつかみ、その方針を立てる。その方針の背景には先生がどのように子どもを育てようとしているか、それにはどのような教育的価値や意義があるのかという柱を立てていく作業が必要になります。それが「見とり」「見通し」「見立てる」ではないかと思うのです。実際にその行為を施すことによって、次のプランを生み出すことにつながるのです。

白鴎大学教授 内田雄三
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