ある世代の人にとって、「漫画に描かれたすごい俳優」といえば、まず思い浮かぶのは『ガラスの仮面』の北島マヤだと思います。容姿にも家柄にも恵まれない、女優と呼ぶにはちんちくりんの少女マヤ。しかしひとたび舞台に立てば、不思議な魅力を放ち、観客の心を奪う──そんな彼女の物語に、多くの読者が夢中になったのではないでしょうか。
最近、これとはまったく異なるタイプの「すごい俳優」に出会いました。『【推しの子】』の有馬かなです。かなは主人公ではありませんが、この作品における「演技すること」の意味を体現する、象徴的なキャラクターです。
「漫画の話?」と思われたかもしれません。これはちょっとした作戦です。この連載で本当に考えたいのは、実は、演劇と教育の関係についてです。
最近、「演劇は教育に有効!」といった言説を目にすることが増えました。たとえば、演劇は、自分の得意を活かしながら他者と関わる「協働の場」として語られることがあります。演劇には、俳優だけでなく、演出家、照明、音響、舞台美術、衣装など、さまざまな役割がありますから、その中で、自分の個性や能力を発揮し、誰かと力を合わせて一つの作品をつくりあげる。そう考えると、演劇とは現代の教育にとって「理想的な協働」の形式だ……。
でも、これって本当でしょうか? このことを、漫画のキャラクターたちを借りて考えてみようというわけです。なお、どちらの漫画作品についても、ごく序盤でのキャラクター設定とセリフ引用のみを扱い、ネタバレはしないようにしますので、その点は安心してください。
『ガラスの仮面』第6章「舞台あらし」において、マヤの演技は、「目立ちすぎて舞台全体を破綻させる」ものとして描かれます。マヤはあまりにも魅力的で観客の目を釘付けにしてしまい、舞台全体の調和を乱してしまいます。
一方、『【推しの子】』の有馬かなは、幼いころに天才子役として売れたものの、成長した現在ではオワコン扱いされています。高校生になったかなは、使われやすい俳優であるために、作品全体のバランスを意識し、他の俳優たちや演出の方針に自分の演技を合わせるようになります。
興味深いのは、どちらも「演技が上手い」人間として描かれているという点です。マヤは自分勝手に演技して舞台をあらす。かなは作品のコマになろうとして自己を抑圧する。マヤとかなの振る舞いは真逆ではありませんか。
演劇という形式は「作品全体」という構造と無縁ではいられません。俳優個人がどんなに素晴らしい表現をしても、それが「浮いて見える」ならば「作品の妨げ」になり、反対に、全く目立たない小さな要素も、「作品の完成」のために必要とされます。
演劇における協働とは、必ずしも「互いを活かしあうこと」ばかりではありません。そこでは、作品の完成のために個を構造の中に位置づけ直す力学が働きます。演劇を成立させるために、そこへ参画する者たちは常に、自分自身の表現と、作品全体とのバランスを引き受けさせられます。自分自身の身体そのものを表現の媒体とする俳優たちにとって、これは面白い作業でもあるのでしょうが、考え方によっては残酷です。
マヤは、自由すぎて全体を壊す。
かなは、抑制し、自己を殺す。
もちろん、こうした構造的矛盾は、どちらの作品でも、物語の推進力となるように誇張されています。ここでは、この誇張から、「表現とは誰のためにあるのか?」と考えてみましょう。特に、演技が「見られることを前提になされる」という点は、きっとわたしたちのヒントになるはずです。
次回は、この「見ること」と「見られること」の関係に注目しながら、俳優の自己表現と観客のまなざしの交差点を見つめてみたいと思います。(続く)