私たちは、「社会性」というものを問題とするときに、まずもって西洋近代に発した個人主義的な人間観から、いかに脱却すべきかを問わなければならないと考えます。
そこでは、「個人=individual」は社会から分断された存在であり(注1)、社会を構成すべく一斉に競い合うフリーな主体として構想されてきました(でも本当はフリーでもなんでもなかったわけですが)。子どもたちは、「個性を磨け」「能力を高めろ」「本当の自分を探せ」「自己診断しろ」といった強い圧力のなかで自律的に生きることを強要されます。その個別で断片的な能力の判定の仕方が、認知能力の測定法として構築されてきたと言えるでしょう。
こうして、個人主義的人間観に基づいた能力(ability)の研鑽のみに力を注ぐ、偏った教育観が社会に浸透します。その結果、分断された個人が、一律の評価軸において高位低位を測定される、相対的な存在として立ち現れます。つまり、他者に対して「上か下か」という発想のみにおいて、自己の位置や存在意義を確認し続けるような人生観が蔓延します。例えば大学では、全能感を持った学生と、自己肯定感を失った学生とに大きく二極化が進んでいる状況が見て取れ、とてもバランスが悪いように思います。
こうした人生観は、他者からの差異化(「あなたとは違う私」)や、上昇志向(「あなたよりは上にいる私」)への欲望を基本的な駆動力とした高度消費社会には都合のいいものでしたが、一方で我々は成長神話の欺瞞性や消費欲望の限界に気づいてしまいました。「つながり・絆」や「生きる力」、「環境」などが新たなパラダイムとして浸透し、個人消費から「シェア・エコノミー」へと活路を見出していく現代の経済状況のなかで、非認知能力へと教育の視点が移っていったのも頷けます。
非認知能力を個別の能力として捉えることを避ける理由は、上記のような個人主義的人間観を温存することにつながるためです。社会情緒的コンピテンスとは、「磨けば磨くほどいい」という一律で個別の能力ではなく、多様な社会的状況において「上手にやりくり」しながら、可変的な自己イメージをプラスに転じていくような人間の特性に関わるものです。つまり、個別の心身の健康や成長は、他者や社会との相互行為と不可分な関係にあります。
非認知能力への注目に一役買ったOECDレポート(注2)では、「社会情緒的スキル」の主要な論点として「長期的目標の達成」「他者との協働」「感情を管理する能力」を挙げていますが、それが個別の目標であるという表現はしていません。同報告で有名な「スキルがスキルを生む」という言葉は、他者や社会との関わり合いの際に重要となる性質や心理的特性が相互に好循環を生み出す可能性を示しています。どれか一つの能力を伸ばそうとするのではなく、広く社会関係の中で育まれる人間の特性に、包括的に着目することが大切です。このような発想に基づいた教育(=サポート)が、子どもたちの自己イメージを高め、well-beingへとつながる、という視点が重要なのです。
次回は社会情緒的コンピテンスを拡張させるための具体的な方法について考えます。