Vol.102多様性と教師教育、そして未来②
課題の補填のための授業から、希望を育てるための授業へ

2018.02

 日本語が十分じゃない、だから教科の学習ができない、指導者がいない、指導者の待遇がよくない……。外国に繋がりを持つ子どもたちの教育は、前回でも取り上げたように、「課題」の話で語られがちです。
 しかし、希望もあります。こうした子どもたちの「ない」を課題と捉えず、それぞれの子どもたちの「個性」「特性」と捉えれば、そこにはこれまでなかったような新しい授業の形が出てくるかもしれません。

 私がかつて行った授業でも、こんなことがありました。中国から来た子どもたちに取り出し授業(国語や社会などの特定の授業の際に、別教室で日本語を教えること)をしていたときのことです。単に日本語の語彙や文法、漢字などを取り立てて語学のように教えても、子どもたちの学校での学びにはつながっていきません。

 そこで「鑑真」の自作紙芝居を作成し、子どもたちに聞かせました。歴史の教科書では鑑真は何度も日本に来るチャレンジをして、6度目でようやく日本にたどり着いた話しか紹介されていません。しかし本来は、鑑真は、日本の僧に僧の資格(戒律)を与える役割を担う人として招聘されていたのです。当時日本には重税から逃れるために大した修行も積まずに僧侶になった人が多く、僧侶の質、税収の安定の面からも問題とされていたためです。鑑真は渡日後、東大寺で一番えらい地位について戒律を授ける仕事をし、高い信頼と人気を得ました。しかし、周囲の日本の僧侶らに疎まれ、結果東大寺を追われる身となってしまったのです。その後、信者らによって唐招提寺が建てられ、中国に帰ることもなく、戒律を与え続けていきながら日本で没したのです。

 中国から来た子どもたちにこうした物語を聞かせながら、「鑑真はお願いされてやってきたのに東大寺を追われてしまったけれど、どんな気持ちだったのかな」、「それでも戒律を与える仕事をし続けたのはなぜなんだろうね」、「鑑真は中国に帰りたかったのかな」という問いを出しながら、子どもたちと考えていきました。子どもたちは鑑真の話と、自分たちが中国から日本にやってきたつらい経験と重ねてみたり、鑑真の生きかたに自分を置き換えてみたりしながら、自分だったらこう、という話を少しずつしていったのです。

 「日本語が十分じゃない」という側面は確かにあるのかもしれませんが、子どもたちは決して考えることができないわけではありません。むしろ、揺さぶられることがあれば言葉はたどたどしくも出てくるし、そこで出てきた言葉は間違いなく、「自分のたしかなことば」です。教師としても、そうした揺さぶりに値する素材を考え、子どもたちと素材を出会わす試みをしていくことができていけば、そこには「学ぶ場」としてのもっとも根源的なものが生まれてくるはずです。「課題」は裏返せば「希望」なのです。
 次回は「授業」という枠を超えて、「課題」を「希望」に変える多様性のある学校づくりの話をしたいと思います。

東京学芸大学准教授 南浦涼介
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