教師として歩んでおよそ半世紀。体育・保健体育を専門に、小学校・高等学校・特別支援学校から、大学や保育士養成校、さらにはスポーツジムまで、幅広い現場を経験してきました。振り返れば、どの環境でも「運動」を軸に、子どもの学びと成長に関わり続けてきた時間だったと思います。
古希を迎えた今も、保健体育教師を目指す学生には「教科教育法」を、幼稚園教諭・保育士を目指す学生には「運動あそび」を、そして保健体育学習指導要領の一番初めに登場する「体つくり運動」そして「高齢者レクリエーション」の授業を担当しています。幼児期から高校生まで、担当する授業で対象とする子どもの校種は異なりますが、校種が変わっても「子どもの学び」は常につながっています。学齢での縦のつながり、教科を横断しての横のつながりを意識し、子どもの学びのつながりについて日々模索しています。
50歳の頃、修士課程で学ぶ機会に恵まれました。当時社会課題の一つとして「小1プロブレム」が問題となっていたこと、そして自身が保育者養成校に勤務していたことから、研究テーマは「幼小連携」としました。先行研究を概観すると「小1プロブレム」の正体は教育制度による段差の問題だと判明します。容易に変えることのできない制度のもと、幼小の子どもの学びのつなぎ方についてはどの研究校でも課題となっていましたが、調べるうち、幼児期から小学校に入るまでの時期の「子どもの学び」を観察する2つの特徴的な方法に出会いました。
一つは、佐伯胖の「見る」見方(関係論的発達論で正統的周辺参加論に依拠:以下は「見る」という)で、もう一方は、平野朝久「見取り」の見方(はじめに子どもありき論で目標にとらわれない評価に依拠:以下は「見取り」という)です。
両者を比較した結果、「見る」は「子どもを小学生にしていく連続性に着目」した見方であり、「見取り」は「子どもが小学生になっていく連続性に着目」した見方という差異を見出しました。どちらも子どもの学びを理解する重要な視点です。
この考え方を、担当した教職課程で保健体育教師を目指す少人数クラスの学生を対象に自ら実践することにしました。15人ほどの学生と週1回顔を合わせる中で、改めて「見る」と「見取り」の両方の見方を意識した関わりを試みます。
教師を志す理由はさまざまです。「運動が好き」「教えるのが好き」「部活の顧問になりたい」といった前向きな理由もあれば、「資格だけ取っておきたい」「親に勧められた」といったものもあります。その多様な学生たちと向き合ううちに、「教師にしていく」見方が合う学生もいれば、「教師になっていく」見方がしっくりくる学生もいることに気づきました。
どちらの見方が良いという訳ではなく、一人一人に合った見方・関わり方を見つけることが学生に対する自身の役割であることを確認することができました。どの学生にも「教師になる力」はすでに内にあり、それを引き出し、見守ることが教育者としての私の役割だと感じています。
これからも、対象が子どもであれ学生であれ、あるいは地域の人であっても、「していく」と「なっていく」という二つの見方を往還しながら、共に学び合い、追い続けようと思います。
