Vol.198主体的ってなに?

2025.10

 主体的な学びと聞くと、皆さんはどんな様子を思い浮かべますか? たくさん発表している姿でしょうか。元気よく活動している姿でしょうか。それとも粘り強く自己調整している姿でしょうか。いろんな様子が思い浮かぶと思いますが、主体的であること自体は肯定的に捉える方が多いのではないかと思います。でも、主体的とは本当に良いことなのでしょうか? そもそも主体とは何なのでしょうか? 今回は主体について考えてみたいと思います。

 主体のルーツは古代ギリシャの哲学者アリストテレスが用いた「hypokeimenon」という言葉にあります。この言葉の意味は「基体」、つまり、いろいろな物事の背景にあり、全ての存在を支えるものという意味です。

 基体の意味に大きな変化をもたらしたのが、近代の哲学者デカルトとカントです。人間と人間以外という考え方から、主体と客体の概念が誕生します。主体が客体に進んで働きかけることを主体的といい、学習での主体は学習者、客体は課題といえるでしょう。つまり、主体的な学びとは、学習者が課題に進んで働きかける学びと捉えることができます。

 しかし、20世紀になるとこの主体概念に対する批判が生まれます。ミシェル・フーコーは、主体そのものに疑いの目を向けます。近代にさまざまな制度・施設を用いて生み出されたものは、自発的に従属する人間であり、主体的であることと従属的であることは同義であると論じます。学校という制度のもとに、透明で自由な主体は存在しないと説くわけです。

 生活経験から主体を定義する主体論もあります。ジョン・デューイは、主体を問題状況にのみ現れる一時的なものであると考えます。主体は子どもが困っているときに現れるもので、一人一人、主体の現れるタイミングは異なると説くわけです。

 このように考えると、「もはや学校で主体的な学びは不可能なのでは?」と考える方もいるかもしれません。

 以前、授業の内容に興味を持ち、家に帰ってから地域の人にインタビューをしたり、お店に電話をかけたりした子どもがいました。お店の方としては、学校から事前に連絡があると嬉しかったというお話でした。宿題ではなかったので驚いたのですが、これは紛れもなく主体的な学びだったと思います。

 1人1台端末が整備された今、子どもたちはいろんな情報にアクセスすることができます。教師の想定外の情報を取得し学習に生かすこともできます。この想定外の情報に触れたときの共同注視の関係も、従属的でない主体的な学びといえると思います。

 子どもの言動に対して「今主体的に学んでいるのかもしれない」というまなざしをもつことが、教師には求められているのかもしれません。

滋賀県野洲市立三上小学校
岩見一樹
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