Vol.156指導案通りでない授業はよくない授業なのか

2022.12

 何度も作り直し、練り上げた指導案を眺めると、授業が指導案通りに進んでほしいと期待するものです。しかし、いざ授業をしてみると、指導案通りにはいかないことの方が多かったように思います。何年か教壇に立つうちに、どうにか指導案通りに授業を進められることも増えてきました。指導案通りに授業が進むことは素晴らしいことですが、ある本を読んで自分の授業が「教師主導の授業に陥っているのではないか」と考えるようになりました。
 その本とは、奈須正裕さんの『子どもと創る授業』(ぎょうせい 2013)です。本の中には、算数の授業で男の子が取り出した折り紙を、授業とは関係ないからと取り上げる教師の話が出てきます。私も取り上げはしないものの「しまいなさい。」と言ってしまいそうです。
 事前に折り紙を使うことを考えていれば、事務室から折り紙を持ってきておいて、待ってました、と子どもに折り紙を配るかもしれません。しかし、折り紙を使って解決する授業を想定していない私は、上手に対応できず、「しまいなさい。」と言ってしまうのです。いかに、自分が考えた授業プランで学ばせることを優先していたのかと忸怩たる思いになりました。
 現在、教師にはファシリテーターの役割が求められるようになりました。教師が知識や解決策を提示するのではなく、子ども自らが知識を発見する学びが大切だということです。「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して〜全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現〜(答申)」(中央教育審議会 2021)では、教師は「学びを支援する伴走者」であるというふうにも表現されています。
 教師が授業の進め方を全て決めてしまうのではなく、伴走者として、ともに授業を創造することが大切だとしたら、教師が一人で作った指導案通りにすることが、一番大切なことではないと思うようになりました。さっきの折り紙を出した子どもも何となく折り紙を出したわけではありません。実は、問題文に「おりがみが一二まいありました。九まいつかいました。」と書かれているのです。その言葉を見て、持っている折り紙を使って問題を解こうとしたのです。そう考えると、この行為も実に真摯に学びに向かう姿に見えてきます。
 授業は子どもたちのもので、子どもは真摯に学ぼうとしている。その気持ちに寄り添い、支えられる教師でありたいと思います。

[参考文献]
奈須正裕(2013)『子どもと創る授業』ぎょうせい
中央教育審議会(2021)「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して〜全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現〜(答申)」

文京区立青柳小学校
西村宗祐
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