私の小学生時代は数多の楽しみに溢れていて、友だちと過ごす時間は最高に幸せでした。しかし愉快な小学校生活にも負の記憶があります。担任の先生への信頼の問題です。それはクラスの多くの仲間が感じていた不公平感が原因だったのです。同じ失敗をしても人によって先生の対応が違う。一方は叱られ、片やお咎めなし。いつも同じ子が褒められる。おかしいじゃないか。ズルいんじゃない。
時を経て初めて教壇に立った時。いくつかの学級経営上の所信を子どもたちに表明しました。その一つが「いつも公平でありたい」でした。ある日、数名の女子が「先生は贔屓をしている!」と抗議にやってきました。運動会の練習で男子ばかりに教えている。ヒイキだ。全然公平じゃないと言うのです。子どもたちの突然の痛烈なしっぺ返しにガツーンと衝撃を受けました。なぜ、どこが?
子どもとの心の距離をどのように測るか。教師にとって難しい課題です。キャリアを重ねたベテランでも苦労をします。意欲と活力、まして若さに溢れている時、前のめりになり過ぎてそれが根拠のない自信と連動することがあります。不出来を子どもに指摘されるまで気が付かなかった自分はその状態でした。良かれと思った行動が単なる思い込みであったり、指導への過信があったりしました。本来は一人一人の子どもと柔軟で自在であるべき心の距離。それが固定的画一の状態に陥っていたのだと思います。子ども理解と対極にありました。
作家の庄司薫は、子どもはけっして白いキャンバスなどではないと述べています。この言の真意は、子どもは多様多感で複雑な存在であるからこそ対峙するものは正しく備え理解せよということにあると私は解釈します。子どもを知る努力を怠るな。言い尽くされた言葉ですが、教育における不易を示していることは間違いありません。子どもとの距離はソーシャルディスタンスではないということです。