私は、今年で教員9年目を迎えました。学生の時も、教員になってからも私の学校に対して、学校が「苦手だ」という見方は変わっていません。
学校は、強者(いわゆる「陽キャ」)の主張によって成り立っていることが多いでしょう。例えば、「いじめた側の生徒の謝罪を、された側の生徒が受け入れる」、「その集団の当たり前に当然のようになじむ」、「仕掛けを行うことで生徒の動機づけが強化され学習に前向きになる」、「指導したり、計画通り実行したりすることで生徒に望ましい変化が訪れる」などが挙げられます。これらのことにうまく適応した人物が模範的であり、学校が好きになった人物が教師になっていくことが多いでしょう。これらと逆の人物は、未成熟で協調性がないように扱われることがあります。謝罪を受け入れたくない生徒(これまでも嫌な思いをし続けていたようにみえる生徒)に対して「謝ったのだから受け入れなさい。大人になれ。」と指導する教師、その学校や授業のあたりまえを振りかざし他人を批判する教師などもその一例です。果たしてその捉え方でいいのかと思うわけです。
この背景にあるのは、うまく学校に適応してきた教師が、それまでの学校生活で獲得した通念や、一般社会において言われていることのうち自分のもっている通念に合致するものを指導に援用しがちだからだと考えます。同時に、強者の理論が教師の思考停止を招いているといってもいいでしょう。
しかしながら、このような学校現場における思考停止からの脱却のために、違和感を覚え現状に対して疑問を投げかける人物は重要な役割を担うと思っています。例えば、コンピテンシーベースへの移行に対して、それは妥当な変化か、教育の目的から考えてどのように位置づくか、それ以外の可能性はないかということを考えていくことは重要でしょう。探究が推進される過程で、探究至上主義と反探究的な主張に2極化し、ゆとり教育のように批判の的にならないとも言い切れません。つまり、問題は教育内容や方法によらず、強者の理論による一方的な同調や順応を進めることで解決を目指す一方で、効果的ではなかったという反発が生まれる構図であり、教師の思考回路そのものにメスを入れていくことが解決に必要だといえます。
組織マネジメントの視点から考えると、日本の学校組織には「同調性」が働いていることが多く、現状に疑問を投げかけることはおろか、一定の資質に限定された教員集団が多様な生徒に「共感」し発達をサポートすることについても限界があるでしょう(同様に、私も共感できる幅には限界があります)。多様な感性をもった教師による、本当の意味での協働が必要なのです。だからこそ、学校というものに違和感をもっている私が教員であり続けることには一定の意味があると思っています。