筑波大学附属聴覚特別支援学校(以下、附属聾学校)の幼稚部の教員になって10年が経過しました。さて、聾学校とは、聴覚に障害がある子供に幼稚園や通常校に準ずる教育を行い、日本語ややりとりする力などの必要な知識や技能を授ける学校のことです。この機に、聾学校の教員を志したきっかけについて振り返りたいと思います。
特に就きたい職業がなく、何となくという不純な動機で教員養成課程のある私立大学に進学しました。案の定、入学後は教員を志す意思が湧かず、勉学に励まず遊びや趣味に明け暮れていました。ただ、役立つだろうという思いで幼稚園教諭の免許も取得できる課程があったため、取得に向けて最低限のことを行っていました。そのような生活の中で、ある人との出会いが今後のライフプランを変えるきっかけとなったことは鮮明に記憶しています。
ゼミの担当の先生に「耳の聞こえない学生が来るから…」と伝えられ、ある授業後に紹介されました。初めて会う聴覚障害者、初めて見る生の手話を目の当たりにして、自分の名前を音声ですら上手く言えませんでした。沸々と対応できなかった自分を恥じ、悔みました。これが最大のきっかけです。この日を境に、聾の世界に足を踏み入れたいと思い、指文字や手話を使えるように彼の所に行っては手話を教わったり、聾者の集まりに参加したりしたのが懐かしいです。彼は、口話や読話、日本語の読み書きにも長けており、それは聾学校の幼稚部の先生と母親のおかげだと折に触れて言っていました。その頃に、私たちが当たり前に駆使している日本語を当たり前ではない聴覚障害幼児に指導する聾学校の教員を志すようになりました。また、聾学校の教員になるのであれば、日本一と呼ばれている附属聾学校を目指したいと決意したのもその頃です。
しかし、在学中は特別支援学校教諭の免許取得のための課程がなかったため、卒業後に通信教育にて特別支援学校教諭免許状(聴覚障害を含む4領域)を取得しました。そして、そのタイミングで附属聾学校の幼稚部の採用試験を受けて合格をいただきました。この間、友人たちは教員としてのスタートを切っていましたが、不思議と焦りは募りませんでした。きっと、志が原動力となり生活を充実させていたのだと思います。
職場での指導経験が浅かった頃は、偉大な先輩の先生たちに囲まれて自分の居場所が見つからなかったり、先生たちからの指導を前向きに受け取ることができなかったりして、悩むことが多々ありました。しかし、高いレベルでの教育現場に一教員として、先輩の先生たちからの助言を仰いだり実践を繰り返したりすることで専門性を高めることができたと思います。徐々に認められる機会が増えていくと共に自分も居ていいのだと居場所ができたような気がしました。
10年が経過し、新たな課題を発見し、また悩みました。そして、今、教職大学院にて研究に励んでいます。次は、発達障害のある聴覚障害幼児のための居場所を作ってあげることを志しています。